そこにある記憶④

横網町公園を後にして、続いては東京江戸博物館に向かいます。

 

東京江戸博物館

私がお邪魔した日は常設展無料観覧日でした。
(現在ホール等改修工事のため全館休館しています)

展示室の一角に“空襲と都民”というコーナーがあります。
戦時中の人々の暮らしや、東京大空襲の悲惨さを物語る数々の資料が展示されています。

 

空襲の惨禍

木造家屋が密集する下町地域は、焼夷弾攻撃により、さながら紙細工のように燃え、瞬く間に大火災に包まれた。
B29の搭乗員は燃え盛る炎の明るさで、2万フィート(約6千メートル)の高度にいても、腕時計の文字盤が読めたと報告している。
空襲後の焼け跡には、いたるところに焼死体が折り重なっていた。
炎による焼死だけでなく、煙による窒息死、川や掘割に飛び込んで溺死,凍死した例も多くみられた。
また、飛来する戦闘機の機銃掃射による被害も少なくなかった。
1945年3月10日の東京大空襲では、一夜にして10万人が犠牲となった。
とくに被害を大きくした理由として、米軍の圧倒的な焼夷弾攻撃と、木造家屋の密集、折からの強風という悪条件に加え、当時は防空法によって無断で避難する行為が禁じられていたことなどがあげられている。

 

 

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戦時下の住まい

こちらは東京下町地区によく見られた木造家屋の一室を復元し、都民の生活ぶりを再現したものです。

 

 

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窓には、暴風によるガラスの散乱を防ぐための紙が貼られ、電灯には灯りが外にもれないよう灯火管制用のカバーがかけられています。

 

 

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室内には防空頭巾や鉄兜が置かれ、空襲の情報を知るための必需品であるラジオも置かれています。
食糧不足が深刻化し、配給の米は玄米に近く、瓶に入れて、棒で突いて精白したそうです。

 

 

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防火用具

1942年の初空襲のあと防空訓練は日常化し、各家庭で準備すべき消化道具が指示されました。
用水を貯めておく貯水槽、消火用の砂か土袋、注水用のバケツや手桶など。
竹竿に荒縄をくくりつけた火たたきは火の粉を叩き消すための道具で、鳶口は天井裏や屋根裏にとまった焼夷弾を突き落とすための道具です。
この他にも、むしろやかますを数枚と水柄杓を備えておくことになっていました。
このような極めて貧弱な消化道具の備えのもと、人々は「命令に服従」して「命を投げ出して持ち場を守る」ことを義務づけられていました。

中には、火災の熱さに耐えきれず、貯水槽に入ったまま亡くなられた方もいたようです。

 

 

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焼夷弾の弾筒(写真中央奥)

焼夷弾のベルト(写真右奥)

 

M64高性能爆弾の不発弾の複製(写真手前)

軍事施設や精密爆撃に主に使用された250kgの通常爆弾。
市街地の空襲でも焼夷弾とともに昭和20年に投下されたとみられる。
江戸東京博物館建設中に発見、処理されたもの。

東京にはまだ9,600発分の不発弾が地下に埋まっているそうです。

 

 

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東京空襲時に撃墜された爆撃機B29の機関銃

昭和19年12月3日、都内は武蔵野町にある中島飛行機武蔵製作所を中心に、B29による爆撃を受け、約180名の死者を出した。
来襲したB29は86機で5機が撃墜されたが、そのうち1機は爆撃の帰路、千葉県香取郡の上空で迎撃した日本軍機“飛燕”が撃墜した。
これはその時墜落したB29の12.7㎜機関銃である。

 

 

他にも戦時中のラジオ音声や、どの順番でどのくらいの規模で空襲があったのかを知れる電光表示板、町の様子を写した写真など…
東京大空襲について色々な角度から知ることができました。

 

 

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最後に…
江戸東京博物館の屋外通路に錆びた古い手すりのようなものが立っています。
これは博物館の展示物で、改修前の言問橋の欄干と縁石です。

 

言問橋の欄干と縁石

言問橋は、1928年に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。
人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。
そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火炎に包まれた。
橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。

言問橋の親柱と同じく、こちらにも痛ましい焼け焦げた跡が見えます…

 

長くなりましたので、続きはまたに…

しばらく時間が空いてしまってすみません。

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